昭和49年07月31日 朝の御理解



 御神訓 一、「打ち向かうものには負けて、時節に任せ。」

 これは無抵抗主義と言う様な事を申うしますね。無抵抗主義私は教祖様の、打ち向かうものには負けてと言う事は、無抵抗主義ではないと思うですね。素晴らしい事だと思いますけれども、それはねあまりにもですね、無気力的なものが内容にあるんです。それはね、あの負けると言う事ね。こらえておくと言う事。打ち向かうものには負けてという、負けると言う事には大変な勇気がいるんです。勇気な勇猛心がいるんです。
 けれどもそれが勇猛心ではなくて、無気力な又は卑怯なと言う様なものが内容にあったらおかげにならないと言う事ですよ。私は今朝からこういうお夢を頂いた。ある大きな家の、家に七・八人ぐらいのまあなんというですかね、若者風の所謂遊び人風の人達が、何かまあ揺すりに来ておると言った様な感じです。そこにあの光昭がおるんです。光昭が私がその、家の前におった所がです、光昭が私の所へやって参りましたから、ね、馬鹿とアホになってこらえておこうと思いますと言うて来ました。
 それで私が、こういう時に、あの負けておったり、こういう時に自分の手を引くと言う事は馬鹿とアホになると言う事ではないぞと言うて、私がその家の家に入っていってその文句を言っておるのにしましたら私にしっかかって来ました。それで私はもう夢の中で気持ちが良かったんですけれども、この襟髪つかみ上げてから、三つ襟を掴まえてボンボン一人一人を投げ出しとる所を頂きました。ですからねもう自分がもう、喧嘩をすれば負けると決まっておるからこらえておくというんです。
 であったらもう是は、打ち向かうものには負けたと言う事にはならないと言う事です。私今日このお夢を頂いてからですね、御理解の何処を頂くだろうかと実は思うておりました。そしたら今打ち向かうものには負けて、時節に任せとこう言う。だからね金光様の御信心は、あの言うなら無抵抗主義とか無気力なものではないと言う事です。打ち向かうものには負けてと言う事は、相手よりは自分の方が本当でありまた強いんだ。けれどもね相手は分からんのだから負けておくと言う所に値打ちがあるのです。
 あともう5・6人もの言うなら、遊び人風の男がおる。もうどうせ喧嘩しても負けるから、負けるから馬鹿とアホでこらえとこうと言うのは、是は打ち向かう者には負けてと言う事にはならないと言う事です。自分の本当なら本当の事を矢張り主張しなければいけません。本当に私その事を頂いてから、是は私を含めてただ、馬鹿とアホで道を開けとか、打ち向かう者には負けて、時節に任せとかと言う物がですね、自分が馬鹿だから馬鹿にされておる。と言う様な時の事じゃないと言う事です。
 一つのなら討論なら討論を致しましてもです、自分の方が本当であり、自分の言う事の方が筋が立っておる。けれども相手がそれに対して向かうて来るのであったならばですね、必ず時節を待てば相手が、ああやっぱりあの時、あんたが言いなさった事が本当でしたよと言う事になって来ましょうけれどもね。自分の理屈が悪い、自分が弱いね、それをです私は、こらえておくと言った様な物は馬鹿とアホと言う事じゃない。打ち向かう者には負けて、時節に任せて行くと言う事ではないと言う事です。
 私共があの馬鹿とアホで道を開け、もうこれ一つでね、これ一つでもうおかげも頂けれるとね、お徳も受けられると。左巻きの線香にになることだと、それに火が付いてさえおれば、一切わずらわしい物は落ちてね、お徳を受けておかげが頂かれ、金光様の御信心はもうこれ一つでおかげが受けられると言う言わば内容なんです。自分が負ける事がわかっとるから、自分が馬鹿になっとけぇアホになっとけぇて言う物、それはないと言う事なんです。だからその辺の所を分からんと。
 もう馬鹿とアホ一つで徳が受けられる、おかげが受けられると言うてもです、そう言う時には、元気な心を出させて頂いてです、それこそ、私夢の中で頂いたようにね、それこそ、遊び人風の男の襟髪つかんで、ボンボンいうて投げ出すくらいな元気がいるのです。負けるから打ち向かわんのだ。負けるから馬鹿とアホになっとくんだ。いうのとは違うと言う事なんです。自分のが本当なんだ。本当だけれども、先方は無気になって、言うならば掛かって来る。自分の方が強いんだ。
 強いそれけども相手が無気になって掛かって来る。だからそれを許しておくというか。打ち向かう者には負けておくと言う事でなかならければいけない。例えばそう言う時にですね、なら光昭が、もう一人の人にね、もう相手五・六人の相手にはもう負ける事はわかっとる。だから此処ん所を馬鹿とアホに成ろうとこう言うておる。そう言う時には馬鹿とアホじゃない、自分の力の足りなさを自覚して、是は愈々力を頂かなければならないなという、自覚に立たなければならないと言う事です。
 そりゃどうせ今度はもう喧嘩せんかもしれん。けどもそう言う時は馬鹿とアホじゃない。そう言う時には自分の力の足りないことを自覚して、本気で力を受けなければいけないなと。ああいう理不尽な事を言う。言うてかかって来る奴がおるとするならばです、それこそ襟髪捕まえて、表に投げ出すぐらいな力が必要だと言う事です。それが出来んなら、自分の力不足を覚え、愈々力を作って行く事に精進しなければならない。
 ただ馬鹿とアホになっときゃよかと言うて、言うとるだけでは、そりゃもう馬鹿とアホにならないと言うこと。それでは、打ち向かう者には負けてと言う事にはならないと言う事。打ち向かう者には負けてと言う事は、自分の方に強みがある。自信があるけれども、言わばこらえておくと言う所にです、勝つ事よりも勇気がいると言う事はそう言う事なんです。だから無抵抗主義と言う事とは違うでしょうが。
 昨日は私共の、ばばの霊様の、三十年の式年祭がありました。総代幹部の方達だけ、と親戚の者だけでおかげを頂いて、まあ無事に済ませて頂ました。後で御直会のときでした。今秋永先生のとこの奥さんが、もう何年でしょうか。まあご承知の様に大変、女ながらも酒が強い、そして好きな方です。けれどもある日突然、神願を立てられて、10年間酒を絶っておられます。偉いと思いますね、あれだけ好きな、10年間神様にはお酒を絶っておられます。
 ところが、最近、例えばそういうね、ただ実証を出すと言った様な、火や水の行と言った様な事は、もう現在の合楽にではもう流行らん。いやそげなん事しよったんじゃ、合楽っていう例えば、もし車があるなら、その合楽の車に乗りそこなう。とまで私は言うとる。言ってるんです。そこに、合楽への帰依と言う物が、いかに気えと言う事がどう言う事かって言う事が皆さん解るですね。親先生が赤って仰れば皆がぱぁーっと赤になってしまう。白と言えば一遍に白になってしまう。
 いいや、私は10年間神様に誓うっととじゃから、まあやっぱ赤で行くと言う様な事ではいけない。昨日も御神酒か段々進むに従って、そのあちらの奥さんだけが頂きよらんふう。私はこちらから、そんなこと言うと、内の車乗れんよって私が言う。合楽の車乗せんよ。それから頂きだしたね。そして、私にこう言うことを言われるんです。桜井先生もこの頃から水行を辞められたそうですね。
 それを福岡に行って発表されたかなんかでしょう。始めの間はなんとはなしに、今まで長年続けて来たことであるから、やっぱりね水を掛からにゃ気持ちが悪い。だから是だけは修行とも思うとらんくらいじゃから、続けたいと言う様なことを言われたから、それで桜井先生にそんな事言いよっと合楽の車に乗りそこないますよと。まあそれから随分考えなされた、御祈念もなさっておられた。そしてまあ本当に親先生がおっしゃらるからと言うて辞めた。という話をなさったんじゃないでしょうか。
 福岡の共励会かなんかの時に。所がですねお水を掛かっておる間は、どうもなかったけれども、お水をパタリ辞めたら腰が痛うなったっち言いなさったですよと、こう言うんです。私はそれを聞いてがっかりいたしました。それが事実であるとするなら。親先生が言われる。言わば合楽の言うならば是が心情ともなろうと言う程しの表行と言う物をスパッと辞めてしまう。辞めたら例えば、それと反対の事がならあの言えるのが、関さんなんかですね。あちらも長年水行をなさっておられた。
 中々辞める事は、辞め切らんぐらいにあった。ある時お参りして丁度末永先生が御結界に付いておりましたから。その事を言うたら関さん親先生がああ仰るのじゃからお止めになさらなきゃいけませんよ、そしてその例えばお水を掛かられるだけの修行を他の事に回されたらどうですか。言うならば表行を心行に切替られたらどうですかと。ほんにそうでしたと言うてね、自然を受けて行くと言う事は、自然の働きをそのまま受けて行くと言う事は、自然を生かす事だと言った様な事からです。
 まあその日から即刻もう所謂、黙って治めるという生き方になられた。もうそれこそもう、手の平を変えた様に次々に一切がおかげになっておると言う事実なんです。例えば最近もう合楽では、大黒様がその、総集合かけられたのが上に大黒様が集まって来るね。皆さんが大黒様を拝めばお金は不自由はせんね。もうそれこそ、打ちでの小槌で限りなく打ち出して頂けれる様なおかげも皆が頂きたい。だからまぁ普通俗に言うならばここへ自分かたにある大黒様を持ってきて御神を入れて頂こう。
 御神を入れて頂こう言う様な事まで、当たりませんけれども、まあ言うならばそうなんです。それでここへ皆さんが持ってきてそれ頂いて帰って、そして改めて埃のかぶっておった大黒様を綺麗に清めて、そしてお神様のとこに置いて、親先生と言うて拝むと。大黒様と言うて拝むとこう言うのです。けれどもただ大黒様さえ拝めばですね、お金を不自由せんと言う事じゃない。合楽への帰依がそういうおかげを呼ぶのですよ。親先生に対するきえが、そういうおかげが、言うならばおかげを呼ぶのですよ。
 昨日一昨日先一昨日でしたでしょうか。熊谷さん所の百何十年も成るだろうという、あの、泥の大黒様を持って見えました。もう何とももう大黒様です。それで言うならば御神を入れて、ここで御祈念さして頂いて持って帰られて、そうしたら親先生と大黒様を見ながら親先生と言うのですから、あの大黒様のにこにこした顔を思い、ここに浮かべながら親先生を思いながら拝むのですから。そしたらどうですかあくる日は二百万円入った現金が。いかにです成程あちらは。
 もう30年前はよその教会でしっかり信心しよんなさった。所がそこの信心な流儀と言う物が頭からこびり付いて離れん。当時は椛目今の合楽風に成るまでは本当修行された。そしてもう本当に、熊谷さんこそ合楽一色になられたなという、そういう帰依があるからこそおかげ頂くんですよ。ですからね大黒様をおかげに参ったばってん、お金はいっちょん豊かにならん。入ってこんともし言うならですあなた方はまだ本当に、合楽への帰依であり、言うならば親先生への帰依は出来とらんと思うて間違えないです。
 厳密に見て下さい、桜井先生なんかはもう合楽にもうそれこそ帰依し切っておられると思うです。水行辞めなさいとこう言うた。そしたら今まで痛くなかった腰が痛うなったと言うごたんならば、まあだほんなもんじゃない証拠ですこれは。関さんじゃないけれどももうそれこそ、手の平を返す様にあれも是もおかげになって行くという、親先生任せならこげなおかげが頂けれるというおかげを頂けるです。現れて来なければならん。反対に成ると言う事は、自分がまだ本当の帰依がない証拠です。
 例えば、水行辞めるとも恐々辞めておる。中々の帰依と言う事はですね、言うならば、ままよという心ですからね。ままよとは死んでもままよの事。帰依なしでは、そういう事は出来ません。けれども何処にかですね、まぁだ、以前の信心と言うか、自分がして来た修行がまーだほんなこつごたる思いが心の中にあるから腰が痛うなるのです。今までは腰が痛かったら、親先生がもうそ言う事は辞めろと言われたら、もうそれっきり腰がスッキリしましたと言う事にならにゃ嘘です。
 私はそう言う事も、いわゆる打ち向かう者には負けて、時節に任せよ。馬鹿とアホで道を開くとこう言う。それこそ、馬鹿とアホになると言う事一つで、おかげも受けられれば、徳も受けられると言われるけれども、その内容がです、馬鹿だから馬鹿と言われる様な馬鹿じゃいけないと言う事なんです。ね。もうあの人と喧嘩もどうせ負けるから、まあ私が馬鹿になっときゃよかちゅうごたる意味でです、例えば表行を辞めたんではおかげにならんです。それよりか表行を続けたが良いでしょう。
 その代わり、それなりのおかげを受けられるでしょう。合楽的なものではなくてもですね。是じゃつまらん位のおかげが受けられるでしょう。だから、本気で馬鹿とアホでと言う事はですね、自分よりも、例えば弱い者、自分よりも弱い者でもです、相手が打ち向かうて来る、そこに心の中にゆとりを持ってこらえとくと。馬鹿になっとかれ、あほになっときゃ、ここを馬鹿とアホで行こうと云う様な生き方こそが本当の意味においての馬鹿とアホなんです。そういう馬鹿とアホでなかならければ。
 お徳が受けられると言うのじゃない。自分が負けるからね、自分が負けるから馬鹿とアホになっとこうと云う様なのはだらしがない事。あまりにも無気力です。そういう意味じゃないですね。例えよしなら、負けてもですね、それこそ強気を苦役、弱気を助けると云う様な事を申しますね。例えばさっき、自分より強いと思うても、思い思いでもです、例えば、桜井先生の例で言うならば、私が、水行辞めろと言われてもです、言うてもです、いえ私は辞めませんと言うぐらいな強いものが必要なんです。
 でなかったら、それは本当に馬鹿とアホになって帰依するかです。どっちつかずでは何時まで経ってもどっち付かずです。自分が弱いから、向こうても勝ち目はないから、馬鹿とアホになっとこうと言う様な事では、何時までたってもおかげに成りませんね。本当に腰が痛くなるでしょう。私は今日、この打ち向かう者には負けて、時節に任せというのは、新しいこの所謂内容です。
 私も今まではね、例えば光昭じゃないですけれども、もう負けそうだから馬鹿とアホでこらえておくと言うのがですね、言われて来たら口向かいもしきらん。叩かれてもじっと辛抱しとく。もう勝ち目がないからです。そういうだらしのない、言うなら馬鹿とアホの内容にです、そう言う物があった様に思うです。だからそれではないと言う事を今日は、打ち向かう者には負けて、時節に任せよと言う所を頂いて頂たいと思います。